そのV・・・フランスの福祉の源流
現代フランスの社会保障制度が形成されるまでの過程を振り返ると、見逃せない「節目となる時」がいくつかあります。「現代」からさかのぼりながら、それらがどのような意味を持っているのかを簡単に紹介してみましょう。
まず忘れてならないのは、「社会保障の組織に関する1945年のオルドナンス」や「社会保障の普遍化に関する1946の法律」が制定された時です。そして、その前には「社会保険に関する1928年の法律」が制定された時期があります。
さらに、さかのぼれば、節目としての1919年があります。この節目は「制度ができた」というものではありませんが、とても重要です。世界史などで勉強したことと思いますが、それまでビスマルクの社会保険の適用を受けていた「アルザス・ロレーヌ」がフランスに戻ってきたときです。ドイツのような制度がなかったフランス側からすれば、「ビスマルクの社会保険の適用を受けていた人たちが帰ってきたばい。今までの掛け金ばチャラにするけんて言えんよね」となったわけです。
もっとさかのぼれば、1871普仏戦争の終結後、その「アルザス・ロレーヌ」は「フランスからドイツへ」ということになってしまいました。結果として、「アルザス・ロレーヌ」はその後のビスマルクの社会保険の適用を受けることとなりましたが、ビスマルクの疾病保険が制度化されようとしたとき、「(その時はドイツの一部となっていた)アルザス・ロレーヌ」には、すでに自主的な共済組合的な制度がありました。ドイツにとっては、「アルザス・ロレーヌ」は、「ビスマルクの社会保険」を適用させるとしても、すでに存在していた「自主的共済」との関係をどうするかが問題となりました。
このことを整理すると、@古くからの共済制度を持っていた「アルザス・ロレーヌ」がドイツ側の制度の中でどのように扱われたか?ということと、Aその後、ドイツの制度の適用を受けていた「アルザス・ロレーヌ」が、フランスに戻ってきたときに、(社会保険制度を持っていなかった)フランスが、「アルザス・ロレーヌ」をどのように扱ったか?という興味尽きないテーマが浮かび上がります。
ここで、フランスの社会保障が形成される過程にかかわる二つの場所を「写真」で紹介しましょう。一つは、ユネスコの近く、士官学校の裏(見方によれば表)にあるアンバリッド(傷兵院・軍事博物館/写真@)です。もう一つは、プラス・ド・ピエール・ラロック(ラロックの場所・ラロック広場/写真A)です。前者は「軍人恩給」との関係で「年金」の源流に関係しますし、後者は第二次大戦後の社会保障の方向性に関係しています(ピエール・ラロックのプランは、ベヴァリッジのプランと並べられます)。
「ドキッ」とする出来事を紹介しましょう。ある日、教え子(今は九州産業大学の先生)と「ユネスコ」の事務局を探しに行って、帰り道にあった「軍事博物館・傷兵院」に行ってみようということになりました。横門から敷地に入ってみると、博物館の手前の横っちょの出入り口から、「ビール」をトレーに乗せた高齢の方(実は、入所している方でした)が出てきました。「暑いしな〜、ビールがええなぁ」と勝手なことを言いつつ横っちょの入口に入った私たち。「ビールとコーヒーでたったこれだけ。安いなぁー」、「ここは穴場やで」、「先生、いいところ見つけましたね」といいつつ、お年寄り家族の写真を撮ってあげたり、トイレに行ったり(写真B)。トイレの入り口のプレートに「観光客は使用できない!!」と書かれていたのを見て、「妙な感覚に・・・」。「トイレだから、まあいいや」と言いつつ、先ほどの出入り口から出ました。振り返ってみると、外の壁に「観光客は入ってはダメ!!」と書かれていました。私たちは「(心の中で)すみません」といいつつ、「僕らの位置づけは、傷痍軍人のお孫さんになってたんやなぁ」と、妙な気持ちのまま、横の出口から出ました。